国葬:一体誰が、国民全体が頭を垂れるにふさわしいのか

1945年から現在に至るまで、公表された統計によると、ベトナムでは29回の国葬が行われてきた。そのうち23回は国内の高官のため、6回は北朝鮮、ラオス、キューバといった社会主義諸国の指導者のためであった。こうした数字を見ると、一見単純に見える疑問を避けられなくなる。なぜ、はるか遠くの国の政治家に国葬が捧げられる一方で、戦争や自然災害、疫病で亡くなったベトナム国民には、これまで一度も彼ら専用の国葬が執り行われてこなかったのだろうか?

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この国はかつて、無数の命を奪った激しい戦争や自然災害を経験し、公表されたデータによれば、新型コロナウイルスのパンデミックでも2万2500人以上が死亡した。彼らは労働者、医師、教師、高齢者、子供、親、子……である。それらの死は、決して無名の数字などではない。しかし、国葬の話が持ち上がると、ある種の非常に特殊な「基準」が存在するかのように思える。つまり、誰が亡くなれば、国全体が頭を垂れるにふさわしいのか、ということだ。
国葬とは、結局のところ、単なる個人に対する儀式ではない。それは、国家が自らの大きな損失を悼む方法でもあるのだ。もし、ある災害で亡くなった何万人もの国民のために国葬を行うことが提案されたものの、それが単なる提案の段階で止まってしまったとしたら、残された疑問は「儀式が十分かどうか」ではなく、権力機構の目には、国民の命が国家全体の損失として見なされることはあるのか、ということになるだろう。
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